♪支離滅裂♪

※※※※※只の元・二ートのブログです。お目汚し大変申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます。

本・振り返り『森と牧場のある学校』

書き終わってから一言、私のこれかなり酷い内容です。頭悪いです。以下本文です。
2週間くらいは空けてしまいますね、更新を怠ってしまいますね。
その間、一応読書をしていました。
若者向けのハローワークに行きたいと考えているんですが、その前に読書をしたいのです。何もなく飛び込むより、話のネタがまず要るでしょう、という感覚で^^だって行くだけ行って、何もしないで帰ってきたりしてしまいそう。^^
思いの外自分の無知が露呈での、もっと本を読んでから、行こうかなぁ、とか。もっとまず読もう、とか思うのですが、キリが良い所で、自分なりで振り返ってみようと。とりあえず、積読本が3冊です。^^

思った事、自分が覚えておきたい事のメモを軽くしたいと思います。主に図書館で借りて来たので。^^

まず以前の記事に書いた手塚郁恵さんの本について振り返りたいと思います。
知人から手塚郁恵さんの本を勧めて頂いた、という事や、
知人に日頃の恩返しとしてクッキーを渡す予定、等々、以前の記事で書いているんですが、
とりあえず先週お会いしまして、本を読んだ事を告げて、クッキーを*1お渡ししました。喜んでくれましたし*2、以前より少し踏み込んだ話が出来る様になった気がして、良かったです。悪い言い方すると(^^;)、自分が何かしたとでも思うと、自分にとっても相手に対して踏み込み易いものだな、と思いました。一方的に話を聞かれるのも話を聞くのも耐えられなかったりするんですよね。
しかしその知人に合った次の日から頭痛に2日程襲われてしまいまして。
久し振りの人間とのそれなりの交流だから疲れたのか、本を久し振りに真面目に読んだ事で疲れたのか、何なのかはわからないんですけど。
そのまま今現在まで体調悪いんですよね。^^おかげで食生活見直せましたけど。^^
以下書く事意味不明ですが、私右目が小さいんです。一般的に言えばそれは左脳型の人がなる様で。しかし最近左目も小さくなりそうなんです。(は?)個人的にはブログを書き始めた事が起因しているのかなと思っていて。まともに自分なりに考えて文章を書くなんて事長い事していなかったので。左脳型の様ですけれど、むしろ頭が混乱している人間なんです。小さい事は理屈っぽくは考えられるんですが、木を見て森を見ずという感覚で、大きい部分が見えないんですよね。大きい部分が見える能力ってそれこそ右脳だと思うんですが。自分の考えている事を感情的に話す相手もいないので、(なんやかんや相手との関係やら考えてしまうんですよね。他人から見ると、全体が見られていない事で、むしろ他人の気持ちを考えない人やら思われているんだろうな、とは思いますが。)とりあえず他人に迷惑かけないブログで、感情的な事をバーッと書く事に、右脳が驚いて、頭痛が来ているのかなぁと。 普段全然頭痛なんてしないんですよ、すごい能天気のバカなので。普段悪い事すぐ忘れてしまえるんですよね。^^悪い考えが来るとそればかり考えてはしまいますが、他人に迷惑かけてなけりゃ良いやって感じで関係ない場面で泣いたり普通に出来ますわ。^^あなたが悪いとかじゃないよと話した上でやっているつもりではありますが。 内科とか行こうかなとも思ったけど、おそらく大丈夫だ。でも夜寝る前に家の鍵と財布と携帯を枕元に置いて寝てます。^^半年くらい前に胸が痛くて不安になって内科に行ったら、(貴方みたいなデブ、とは言われてないけど、暗にそういう事?笑)大丈夫ですよ、と笑って言われたので、うん、ネットで見ても病気になる様な体型でもないかな、うん大丈夫だ、みたいな...パスタばかりやチョコばかりや食べていた時期もあるので、痛風とか大丈夫かなぁとかも思う...。でも手が震えているとかじゃないし、うん大丈夫だな。 一応不安で鍋ばっか食べてます。^^季節微妙に過ぎましたが。

前置き長過ぎるやろ。
とりあえず、以前の記事にもタイトルだけ載せたこちらの本↓

森と牧場のある学校―山之内義一郎先生の実践

図書館で借りて、ペタだけしているんで、さっさとペタをはずして、返却しよう。

植物・動物と触れ合う事による教育の話です。
私は家で飼っていた犬が5年前に亡くなってしまいましたが、犬って黙って構ってくれるし、家族の中でも話題にし易いし、我が家のアイドルだったなぁと寂しく思います。*3

植物も、現在飼っています。(は?)育てています。
元々大学時代やたら植物園に通っていた時期がありまして。
ベタですが、自分はちっぽけだなぁと思ってしまうんですよね、植物なんて見ていると。
木の幹とか、私がウダウダ悩んだりしていたりしてる間、むしろその前から勝手に育ってくれたりなりしているんだなぁ、と素直な小学生みたいな感覚で思ってしまって。見ていてありのままの自分という気持ちになれるんです。 だからと言ってずっと見続けるなんて出来ませんし、大の植物好きではありませんが。
植物各々に違いがある、とかって、観察力を育みますし、違いに気付いて自分の中で学んでいく事って人間の基本的な...知的活動?ですよね。言葉がなんかわかりませんが。バカで。
まぁそういった事はわかります。わかるにはわかります。
知人に手塚郁恵さんの本を薦めて頂いた時、他の本を未だ読まず、手塚さんの情報をネットで調べたりもせず、とにかく私にとっての手塚さんへの始めての触れる機会だったもので、
“えっ!?教育!?つーか小学生じゃんよ。私に一から人生始めろって言いたいんかい、それは無理だわ。物理的に。”と知人に対して思ってしまいました。^^
この1冊を読んだ後に、他の教育関係でない本があると知り、知人はこの本を勧めてくれていたのではないそうです。
なので、あくまで私は小学生には戻れないので、
自分も小学生と触れ合う機会などでもあれば、こういった考え方に基づきながら、触れ合えたら良いなーと思います。
実際、この本に書かれている小学生って頭良いというか、こんな事小学生に出来るんだー、と感心させられてしまったので。私小学生の時なんてただ与えられるものをボーッと享受していたくらいですが。そして活動的になれ積極的になれ、とだけ言われても、(言わないまでも、それが良い、みたいな言い方。そりゃ積極的になった方が、出会うものも会えて、更に学べて、好きな物も増えたり、責任感なども生まれたり、良い事尽しでしょうよ。そりゃわかるんだけど、テメーに言われたきゃねんだよみたいな。)何をしたら良いのかわからなかったり、むしろ私なんかは全力で大人しくなってやると考えるタイプでしたからね。笑あっはっは。
遊べるもの、そしてその遊び方が準備されるとこちらも活動的になり易いかもしれませんね。(何故子供目線、という感じですが、なんやかんやこういったものは、子供目線で考えなければいけないでしょうよ。子供目線を持っている事は決して悪い事ではない、と自分に言い聞かせる。)

注釈に直接全く関係ないけれど、長く書いてしまった話。書いてて、気付いたら、全体的に何の話?という感じに。子どもというものについて考えていたら、家族の話とか、上下関係の話とか、変な方向に発展した?自分なりに考えた事ですね。本の内容の主軸と全っっっっっっったく関係のない話です。驚くくらい関係のない話。後日修正するか消すかもしれないですが、なんか量書いたらアップするか、ととりあえず注釈でアップします。
*4
以下本の内容に沿って^^ペタした所をメモっていきたい。
さっさと図書館へ返さないといけないので、気になった所ほぼ原文まま。考える事が面倒くさい。^^
私頭が悪いんです。自分がすごく頭が悪いという事がわかりました。

p55 ”木を私たちのために切ることを、あたりまえのように考えるのはいやです。だって私たちは、木にたくさんお世話になっているけれど、木を世話してあげたことなんて、ほとんどないから。” 小学5年生の女の子の作文の一部。視点を尊敬!

p82“私たちは、ふつう、公立学校というものは、県、市、村などの行政がつくり、管理するものだと思っている。”
p83“学校ができてから、校舎の増・改築は、三回にわたって行われた。しかも、現在のように、国や自治体の財政によって行われたのではなかった。すべて、村の人たちのまったくの独力であるという。これは、ほんとうに驚くべきことではないだろうか。” (完全にメモですこれ。)明治七年に開校したそうです。明治に始めに出来た“学校”って全て村の人たちによって作られているとかじゃなかったっけ?財政が教育以外に回ったとかで。小学館版の学習まんが・日本の歴史でそんな感じで書いてあった気がするけど、今手元にない。 でも、自分らのお金で学校を建てた方が子供への教育というものに、より他者頼みでないものになりそう。しかも小学校。 それと同時に、まんが・日本の歴史では、国の側として、世界に対抗する為に国を強くする為の人材作りの為に教育を頑張ろう、でもお金がないから各々の村でやってー、みたいな内容だった気がするのですが。
p83“明治五年の学制発布から、わずか二年たらずである。”“経済的にも、とても困難な状況であった。その中で、村の人たちは、集まって話し合い、自分たちの力で、いちはやく開校にこぎつけたのであった。 村の人たちは、教育をとても大切に考えていた。だからこそ、そのようなすばらしい熱意と実行力が見られたのである。”
今の時代であれば、一から作る事にお金を使うよりも、子供に教育熱心であれば、既に教育のシステムの整った所に入れる、そういったお金の使い方をしますよね。引っ越すなり塾なり私立なり。
村の人が教育に熱心であるのは、前の世代の村人が、学制発布から早い時期に開校させたという誇りから来るのかな。
全国的に見て、学制発布直後に建てられて現在も残る学校って少ないんだろうか?
しかしおそらく学制発布直後うんぬんでないであろう、他校でも同じ実践がなされている事を考えると、そこは結局関係はないのか。

p107 地域の教材化~“地域の産業や文化を、理解、継承、保存できるだけでなく、さらによいものにしていくこともできる”“地域住民も、喜んで、生き生きしてくるのです”“一石二鳥”“地域の中に、専門家がたくさんいるのですよ。その人たちが、指導者になってくれるのです”“「いいことずくめですね」「そうでもないのですよ。ともすると、地域の産業や文化の内容を、子どもたちに教え込んでしまう、という危険性があります。総合活動は、子どもが主人公なのですから、子どもの自主的、積極的な活動にしていかなければならないのです」”→地域の産業の後継者も将来的に出来たら良い。(地域への愛も育まれ、“住民の気持ちにも応え”(p120)る)→p121“教育という仕事は、さまざまな人たちの要求に応えていく必要がある。”“基礎学力は、もちろん大切である。しかし、テストで測定されるような学力だけを教え込もうとするとき、多くの子どもたちを、ふりこぼしていくことになるのではないだろうか。” 詰め込み教育が完全に悪いかと言うと悪いとは思わないし、実際社会に出たら覚えたくもない事覚えなければいけない事ばかりなんじゃないかと思うんだけど、バランスが大切なんですかね。

(p132~p159の“都市的環境の住宅密集地”(p133)にある他校での、学校の中に森を作る取り組みの話が好き。)
p136 PTAの人たちとのやりとり。“森といっても、教材樹林園といって、このあたりに自然に生えている木を植えるのです。いろいろな種類の木を植えて、子どもたちの学習に役立たせるのです”“大人の人が見て楽しむ庭ではなくて、子どもたちの教材樹林園なんですよ。子どもたちの知性や感性を伸ばす学習に役立つような、森なんです”“子どもは、地域に自然に生えている樹木の名前も覚えるし、この地域の自然を大切にする心も育つでしょう。それから、理科の勉強にもなるし、作文を書くときにも、役に立つのですよ”“市周辺の自然に見られる樹木を植えた森こそが、子どもの知性や感性を伸ばす学習を引き出す”
p137“孫子の代まで残る、教育的財産”“樹木は、三百年以上も生きつづけるのですよ。森づくりは、壮大な夢ではありませんか”
p138“寄付は、自由ですから、無理しないようにして、できるところまでお願いして歩きましょう”
p140 森の設計図の話。
“まず、地表から三〇センチくらいの深さまで、自然と同じような土壌にしなければならない。この土壌の中には、菌類などの微生物や小さい虫などがいる。これらの生物は、植物との共存者なのである。”
森の中心を、“森林”群落となる“一〇メートル以上に伸びる樹木”で作る。。 その周囲に“マント”という群落を作る必要がある。“マントというのは、好陽性低木植物で、二メートルから四メートルぐらいになる”樹木で作られる。 更にその周囲に“ソデ”という群落を作る。“ソデは、一・五メートル以下のもの”。 “森林群落を中心として、このようなマント、ソデ群落をつくることは、森林を保護するために必要なのである。これによって、側面からの光や風などが入ってくるのを防ぎ、森林を保護し、森林の環境を安定させるのである。” p141“八一種、四一二本(三百万円相当)の樹木を植えることとなった。”
個人的に、夢のまた夢は、庭園を持つ事(笑)なので、森の作り方になるほどとなった。確実に個人用の規模でないけど。
p153“子どもたちは、観察したことから、木の名前の由来を考え、それが正しいかどうか、図書館の図鑑で調べた。 森の樹木は、種類が多く、聞いたこともない名前がほとんどだった。”
p153 “森に木の道を作”る話。(6年生のアイデア)“森の中に入ると、植え込んだばかりの木の根を傷めるから、入っちゃいけないのでしょう。もっと近くで観察するためには、道があったらいいと思います”

p177“できる喜び”“技能に関するもので、音楽、体育、家庭科などは、できる喜びの比重が大きいといえます”
“わかる喜び”“すべての教科に関係がありますが、特に、国語、算数、理科、社会に関係する喜び”
☆“心を決める喜び”“自分の意志で何かをやるとか、自分で自分の行動や価値を選ぶとか、自分で決断するとかいう、喜び”
p178“心を決める喜び”“人間の一番大切な部分なのです。これも、すべての教科の中で得られるものですが、あえて分ければ、生活科、図工、特別活動があげられます。これは、とくに、意志的、決断的な教科と言えます”“図工が意志的、決断的な教科だ、などということは、これまで、おそらく聞いたこともないであろう。”

p202“以前は、マンガのような絵を描いて、それに吹きだしをつけて、その中に主人公の気持ちを書きなさいと言っても、子どもたちはなかなか書けなかった。 今は、それがなぜだったか、わかってきた。 先生は、自分が要求した答えだけを認めて、それとずれている答えは、みんな排除していたからだった”
これは受けた事がある気がする。自由にして良い様な言い方をしながら、答えが求められている様な事。まぁ空気読む練習なんですかねこれは。私の場合は、社会科の自由記述で好き放題書いたら、“自分で考えるのは良いけれど、授業で受けたはずの内容とは違う”と言われた事があるけれど、まぁ何の為に学校の授業受けているんだという話だからね。
p215“事実を教師がどう見るか、ということが、ひじょうに重視されている。教師が成長するということは、子どもの見え方が変わっていくこととも言えよう。 「あの子はこうだ」という言い方がされるとき、それは、その教師との関係の中で、その子が表わす姿なのである。別の教師との関係の中では、別の姿を表わすかもしれないのである。あるいは、同じ子どもの姿を見ても、教師によって、違った見方をすることがある。”
ひと桁の足し算ができない子どもが、落ち葉の数は数えられて、先生の方がその子どもに対する見方が変わったという話。“方法さえ工夫すれば、意欲的に学習するのだ、ということがわかった”という話。 単純に人間関係で知らない所を相手に見せられる時もあるし、自分を余裕を持って見てもらいたいなーという吞気な話。
p216 子どもが図書館の壁に落書きした話。“子どもがそのようなことをしてくれたおかげで、その子の背景がわかってくる。公共物に対して、子どもがどういう態度をとっているかが、わかってくる。そして、ほんとうの意味で、子どもにどう対応したらよいかがわかってくる。”
やっている側はそれどころじゃないだろうという話だが、私はこういう子は人に相手にして貰えるから得だよなーなんて思ったりも吞気にしてきたなあ。
p218“ふすまの向こうを見てはいけないと言われていて、一度も見たことがなかった。ところが、ある日、ふすまの向こうに美しい花座敷が見えたのである。”
(p219)“例えば、教育にイメージやファンタジーを取り入れるなど、考えたこともなかった。 「空想ばかりして、地に足がついていない」、「現実が大切なのだ」、「空想は逃避である」などという考え方がある。 しかし、見るなと言われてきたものを見たら、そこには、実に美しい世界があった。”
詩的ですな。
p226“成果そのものは、そんなに心配することではないのです。これから、どうしたらよいかを、見つければいいのです。”
☆“あれがよかった、これがよかった、ということに、くよくよしないでもいいのです。ほめられても、それが、すべてではありません。よくなかった、と言われても、それが、すべてではないのです。”
“ただ、この道をずっと歩んでいこうという、自分の方向生を見つければよいのではないでしょうか。どうぞ、みなさん、急ぐことはありませんから、ご自分の方向を見いだしてください”“教育は、長い道である。”
教育に限らず、良い話ですな。
p231“本音を語れないところからは、ほんとうに価値のあるものは、何も生まれてこない。悩みでも、疑問でも、人と違う考えでも、自由に語れる時にこそ、お互いに成長していくことができる。”“その時にこそ、絶えず問い続け、追及してやまない教師集団しなる。”
一つの価値観。
p232“私は、初めは、絵画指導の技法を学んで、子どもにうまい絵を描かせることはできたのです。 ところが、校長先生が、図工は自分の心を決める喜びを育てる教科だ、というでしょう。そんなすごい教科なのかなあ、と思ったのですね。”“『いい絵』は、一人ひとりの子どものよさが出ているんですね”“『いい絵』というのは、子どもが、自分を表現している絵なのだろう。生き生きした、その子自身が感じられる絵なのだろう。”
一つの価値観。
p233“決して賭けというようなものではなくて、確実な道なのだということは、体験してはじめてわかることなのだろう。”ほう。
p240“教育は美談ではないのです。美談になっては、いけないのです。”
“美談は感動的かもしれないけれど、自分には、あのようなことはできないということになるのではないだろうか。美談なら、それだけで終わってしまう。 そうではなく、先生の教育実践から何かを学び、自分なりのものをつくりだしていってほしいというのが、先生の願いなのである。”

p77“「まじめで、素直で、ものに耐える態度」は、一面では、「自分でよく考え直すこともなく、素直にそのまま受け入れ、従っていく」という、創造性とは逆の態度におちいり易い。”“創造性の根源は「ひっかかる」能力だ、と言われる。つまり、興味と疑問をどこまでも持ちつづけ、こだわる力が、創造性の根源であるというのである。 確かに、物事にひっかかり、こだわり、あくことなく、根気づよく求め続けていかなければ、何か新しいものを創造することはできないだろう。 そうだ!ものに耐えるねばっこさ、しつっこさ、まじめさは、創造性の基本条件なのだ!「耐える心」をもった人間が、自分で考え直すこともなく、与えられるものをそのまま受け入れ、従っていくようになるのは、教育方向の誤りなのではないか!” 普通に良い話。


一番印象に残っているのが、p79~p82。とp122~p131。
p79“同じことの繰り返しでは、教育は、ひからびてしまう。”
“教師は、子どもとの生活の中で、さまざまなことに気付くだろう。こうやってみたら、こうだった。あるいは、こうやってみたけれども、予想したような子どもたちの反応は出てこなかった、などということがあるだろう。 それをそのまま流してしまっているのではないだろうか。 それを記録していったら、どうだろうか。 記録してみると、そこから、さらにいろいろのことがわかってくる。 こんどは、こうやってみよう、と思う。 やってみて、また、記録していく。 このように、たゆみなく、実践と記録をつづけていくと、そこから、ほんとうの教育とは何か、という本質的な問題意識が生まれてくる。”
“一人ひとりの教師のこのような実践と探究が、教育の一般性、科学性を求めるプロセスなのである。”
“一つの地域の学校で行った、具体的な、特殊な教育実践を、さらに深くふりかえり、文字に記録し、そこから一般的な意味を見いだしていくことなのである。”
へき地の学校で、ほとんどの教員が3年で転勤、わずか8人の教師の内毎年3人程去っていく。その中で教育の改善は困難→“だからこそ、実践を記録し、客観化しておかなければ、前の教師たちの実践的探究の跡はすべて消えてしまう。また、新しくきた教師たちが、今までの実践を継続し、発展させていくことも、できなくなってしまう。すべて、その場かぎりのものになってしまう”
教育には地域の協力や援助を“ぜひ必要”とするもの→“多くの人々に理解してもらうためにも、誰にでもわかるように教育実践を記録すること”
“教育実践の足跡を、実践の中から生み出された教育科学――いつでも、どこでも生かせる理論――として客観化していくことが、どうしても必要になってくる。”
“すぐれた教育者や専門家の理論や実践が、その人だけで終わってしまうことも多い。 それではいけない。 それを、引き継ぎ、さらに発展させていくことこそ、必要なのだ。”
教育に限らない話かな?何かを実践する、という話ですよな。
“校長が代わっても実践は続く”(p122)そうで。学校の“研究紀要”があるそうで。
p124“校長が代わって、学校の雰囲気が変わることは、むしろいいこと”だそうですが、“それまでの教育の方針や方法が、まるで変わってしまうのでは、”“教育の成果が上がらない”との事。“教育の成果をあげるには、継続してやっていく必要があるのです。それまでの実践に学び、それを土台として、さらに発展させていくことが、大切なのですよ”
p126 先生が変わると子どもに対する見方が変わる→教育のやり方も変わる、という話。
“子どもの見方というのは、ほんとうは、教育の仮説なのです。”
☆“『子どもはやる気がない(ように、先生には、見える)。きびしく叱れば、やるのではないか』というのは、一つの仮説です。仮説ということは、かりに、そう予想してみる、ということなのです。理科の実験の時、こうしたら、こうなるんじゃないか、と仮説を立てて、実験してみるでしょう。それと同じです”
“仮説なのですからね、感情やこれまでの常識やただの思いつきだけでは困るのです。よくよく吟味して、科学的に実証されるものでないと困るのです”
“やる気がないから、子どもを叱る。おもわず、カーッとなる。 それは、その子に対する、先生の腹だたしい感情をぶつけているのだ。 みんながやっているからとか、子どもは甘やかすとだめだからとかいうのは、一般常識に従っているだけだろう。また、ただの思いつきで叱ることもあるだろう。 それだけでは、よくよく吟味した仮説ではないわけである。”
p128 学校全体への“共通理解に達するプロセスを、とても大切にされる。”
“共通理解の次に大切なのは、実践の方法や成果を、文字にして残すこと”“記録していく”
p129“記録することによって、自分でもいろいろなことに気づきます。後からくる人たちのためにも、記録しておくことが必要なのです。”
“説明するための資料が残っていれば、このような実践には、こんな意味があるのだと、自信をもって、説明できる”“ちゃんとした理論や実践の記録があると、自信にもなり、実践のよりどころにもなるのですね”
p130“地域の人たちが、先輩になって、”新しく来る先生に協力してくれるそう。“学校が閉鎖的にならないで、地域に開かれたものにしていくこと”
“授業参観などは、学校の教育実践を地域の人たちに理解してもらう絶好の機会なのだから、そのつもりで、堂々と、自分の教育実践のデモンストレーションをしよう”


発行年1991年かぁ。
教育、しかも小学校の、自由度というと、最近...というかそれなりにもう経ったっけ...ニュースを思い出す...。そこに関しては、私には難しい...話である...。
実践されている内容としては、ホンマでっかでをたまに見るんですが、生物学の池田先生が森の中で遊んで、分類は学問の基礎なんたら言っていた気がするんですが、それを思い出す。
まず認識して、考えて、これとそれの違いを理解出来る様になる事が学ぶという事なのかなと個人的に思いますが、
私割とその思考回路が割と混乱している様で、前職で、○○さんの性格がわからない、と上司から言われた事がありますが。逆に、○○さんのやりたい事少し理解出来た気がするわ、と言ってくれたのは、普段つっけんどんな態度を取り合っていた方だったんですけどね。
一応はデザイン系の就職だったんで、自分なりの考え方は自分なりにはあったんです。いかんせんそれを他人とシェアしていなかった事で、自分の中で考えていただけでは整理が至っていない部分も多く、他人に言われても直せない、単純に力不足が生じました。一応は他人に言われて直す能力だって身につけようと学生時代から細々ながら努力をしていたつもりではありますが、まぁ至らなかった様ですので、仕方ありません。

テレビを見ながら打っていた。
・子どもに対する親の責任義務の話とか。ニュースでされていた話とは直接関係はないけれど、子どもについて考えてしまうと、自分をどうにも想定してしまって、子どもは思い通りにならないものじゃないかな、と考えてしまう。というか、全然親に言ってない事なんてありますし。
最近よく思うのは、小さい頃私は正直、自転車で坂道をめちゃくちゃ飛ばしていたんですが。最近近所で救急車がサイレン鳴らして走っている前で子供に横断歩道を渡られて、ヒヤッとして、一応は少し叫んで、一応全然大丈夫だったんですが。私が小さい頃は、住んでいた場所が住宅地で、親に思わず最近確認してしまったんですが、子供にとって住み易い様に作られた住宅地だった様で、普段車になかなか遭遇しない様になっていたんです。すごく文章が頭悪いですが、自分が事故っていないのは、親による配慮と偶然によるものなので、色々と怖いな、と思います。
前職でカッターなどを使っていた時に私は手元が危ないという事で怒られまして。それと、電気ノコギリなども多少使っていたので、私がケガするだけで会社を潰す事だって出来る、と。
・就職志望動機は、アルバイト先のガソリンスタンドで見た作業者の道具類が整頓されているから、という高卒採用の新入社員の男性の特集。丁寧な作業をするんだろうな、と思ったそうで、その18歳の視点がすごい。“そんなところに目が行くのかとドキッとした。”と社長。“いつもきれいにしていれば効率もあがる”(by社長)しかも社長の“不器用だなと思います”、20人程度の企業で新卒採用は行われていなかったが、“育ててみたい”という言葉にほっこり。私なんかがどうこう言う事ではなく、ただただ視点を尊敬します。
・痴漢の被害者が女子高生が多いって、羞恥心や恐怖心から、文句が言いにくいと思っているって卑劣ですね。
・ゴゴスマって関東でやってたんだ初めて知った^^ふぉ~ゆ~^^


最後に不謹慎?にJ話...。
某MAいどJourneyのK君が退所という話がショックです。なんだか最近K君担当になる妄想をしていて...(は?)
自分がこの先今更真面目に現場とかに通う様なジャニーズオタクをするのであれば、K君が良いなと勝手に考えていた矢先だったんです。
今じゃなくて良くて、もし自分が30くらいになって安定して働いている事が出来ていたりなどすれば、丁度その時には、某MAいどJourneyメンバーがデビューした位で、もしくはデビュー2、3年位という結構私は好きになり易い時期になったりして、松竹座にも人生に一度は行きたいというのもあるし、大きい会場で出来ている頃なのかもしれないし、という様な勝手に妄想をしていたその矢先だったので...。
事実なんでしょうか...寂しいですが...見られないという事が...
この記事を書いていた途中で携帯で知り、ショックで書く気力を少し失いました。^^
単純に寂しいです^^
すごく勝手にですが、気持ちを切り替えていきたいと思ってここの書きました。(いつかこの記事を掘り起こす時の為に記憶にもとどめておきたいのもあり。勝手に。)

(書いてから気付くレベルの人間ですが、本当気が多いやつです。)

それと、ふとアクセス解析を見ていて気付いたけれど、アクセスされている時間を考えると、このブログに辿り着く人って、ネタもネタですが、春休みの大学生であったか、私と同じ様な人もいるんじゃないかと思いました。

*1:プレーン味と、ゴマ味も作って、そしてラッピングしました。前職が製造業で、時間が空いている時に梱包をしていたので、それを思い出してラッピングをしました。人によっては、留め金が人の手に刺さらない様に内側に丸めたりもするんですよ。そういった気使いってなんやかんやドキドキしてしまうので笑、当時もパクっていて、今回もパクらせて貰いました☆自分がドキドキする事なんで、他人も嬉しいものかなと。

*2:なんかむしろ泣いて喜んでくれました;;私も泣いてしまった

*3:犬派猫派・談義がありますが。犬を飼っていたので、犬派です。ですが、猫も捨てがたい。猫でも何でも良いから構ってほしい...。あと体の柔らかそうな感じたまらんみたいな。一時期猫派にぶれそうになっていた時期があります。動物飼いたい...でもそんな責任感今更ない...。猫派にぶれつつも、猫派の人に、”犬派の人ってそれを押し付けてくるから嫌”、と言われた事があって、”今あんたに猫派を押し付けられたわ”とむっとした経験がありまして、黙っていましたが。猫派犬派って、愛情表現の好みの問題であって、猫は自由だから良いだとか言われると、本当はなんやかんや猫からの好意をどこかで見つけられなければ、好きでい続ける事なんて出来ないくせにと思ってしまうんですが。ストレート・ストレートじゃないにしろ、伝わるんならそれで良いじゃんと思ってしまうんですが。やきもきしますわ。 ストレートでなくていけるなんて飛んだスキルじゃね? 多分私ストレートでない人にストレートに懐く事は好きですけど、あまり誇示されると懐かないんですよね。全力で大人しくはむかってしまいますわ。(単純に顔に出さずに相手に対してチッと思い続けるという事です。そして相手はそれに気付かない。吞気なもんですわ。) いっそウサギが飼いたい... 犬派猫派の談義の世界から抜けだしたい...

(追記・因みに私は人間に対しては上下関係一切無視で他人を放置することが特技です。はっきり言って忠誠心は特定の人にはあるんですが、その場のリーダーに対してではないんでリーダーはガン無視というまぁ只の厄介な人です。更に勝手に忠誠心を誓う相手に好かれないんですよね。だから正直なんでも良いわけですよ。そして私自ら犬派だと話を振った経験ありませんよ。というか、今の時代、終身雇用も曖昧だし、猫派がよっぽど主流で好かれるし、厄介でないし、本人らも偉く満足して誇らし気でそれで良いじゃないですか。猫派の人は是非楽しく、犬派をわざわざ乏さないで欲しい。只の嗜好でしょうが。只の一部の猫派に対する恨みの記述であって、猫はかなり好きです。その人が真の猫派でなかったのかもしれませんしね。猫の方かよっぽど人気でしょうが。私も公園行って探しますわ逃げられても嬉しいですわ。なんなら苦手な近所の犬とかいましたわ。サファリパークに姉といったら、昔犬を飼っていたので懐かしむ為に必然的に犬コーナーに行きましたけど、時間がなくて行けなかっただけで、猫コーナー行きたいって姉にアピールして裏切りもの扱い軽くされましたわ。...コウモリでも好きになろうかな。^ ^というか私小さい頃好きな動物ずっと熊って書いてきたしね。熊派と言えは良いのかな、犬飼ってたけど、そして最近は熊に対してウハウハした気持ちはないし詳しくないけど。はーあ、どうでも良い。ネトウヨが嫌いで左翼と名乗る人にチャットで遭遇した事があるけどその気分。犬派猫派論争って相当厄介なもんなんですかね。やっぱウサギでも飼いたいなぁ。

猫派の方お気を悪くされましたらすみません。そしてこれ犬派の方も本当にすみません、としか言えないですね。すみません。

タヌキ、キツネであればキツネ派です。うーん、なんかベーシックな二つは結局どちらかになれないんですよね、私。三人兄弟だからかわかりませんが。少女漫画の髪が黒い方とか白い方とか、友達だとかそういう談義が疲れる。そういった人は相当2択に執着心あんの?って感じ。私割と自分の事はいろんな人と比べるので、完全な2択に絞れないんですが。全員を敵に回すのが得意なんで。だから人生上手くいってないんでしょうねはいはい。貯めて来た他人に対する恨みを、いつかは言ってしまうんだろうな私は、と思うと、今言っておこう、というテンションで書いているだけです。ただ、母の知人の猫派の方が、猫が病気をして、元々夫が動物嫌いだったかなんかで、一晩車の中で猫の看病をしたそうです。また、猫の死に目に立ち会えない辛さから在宅ワークに切り替えたそうとか。なんか何かを好きな人の鏡だと思うんですが。私は自分自身まだ若く、出会う人も若い人が多いんですが、苦手であった猫派の子に対して、そこまでの事貴方出来る?って内心私はイライラした。とにかくそっちからアピールされたもんだから。だからスルーをしたんだけど。単純にその子が家族から大層可愛がられてそうな所も苦手だしメールで課題のメモなりしてれば知ってるべき質問をしてくる所も苦手だった。なんで私がこんなしつこく言うかってその子とはグループワークをして、内容が猫についてだったんですね。勝手に私がすごいやさぐれちゃって。意外とその時テイの良い仕切りみたいなグループ内での立ち位置だったんで。自分の意見とか上下関係とか全く押し付けてませんよ。私はどうせ口が悪過ぎですね。しつこくキーッて思ってしまうんですその時を思い出すと。

今後は犬派でも猫派でもない、と言っていきましょうかね。なんか正直俄然のキツネ派にも思えてきた。だって実質只の自然の動物だからね。性格なんて知らん。キツネなんて動物自身は北海道で遭遇した経験くらいだけど。

禿げそうだから、とにかく犬も猫も嫌いになった。出来れば将来両方飼いたいんですけどね。

動物は好きでない人になります。別に好きですけど。

この談義って書かなきゃ良かった。でも一度書いたら解決ないなりで書きます。愛国心の話とか並みに感じる。誰だって自分の国は面倒見合うから良いなり自分の国は自分で責任持つから良いなり言う。私は平和を重んじる人です、なんて皆言うよ。平和の定義が各々違うんでしょ。見えている部分であったり。よそはよそ、内は内、なんですかね。基本は。猫派犬派談義も。でもなんで犬派がこっそりしなきゃいけないの?猫派アピールし過ぎじゃね?というか、私って犬派じゃないんだと思う、結局の話。

私突然の告白ながら帰国子女なんですが、一つの国3年、一つの国5年、日本に帰ったらクラスに友達いない分団体の吹奏楽部は辛うじて居場所があったんですが。単純に日本、というと居場所なく感じる事もあるし、家族に正直に自分の事あまり話せる事もなく、別に海外行っても只のアジア人としてしか受け止められていない気がする時はたまにありましたし、特定の居場所なんてこの世にないんですよね。個々人に懐きますが、結局縁が切れますし。寂しくて仕方ない、何でも良い。忠誠心に憧れるけど憧れ切る事も出来ないんですよね。だって向こうからお断りされる感じだし。しかし日本人に日本嫌いと言われるとさっさとどっか行っちまえ、と長年思ってきましたが。どうかここに愛国者がいない事を願いますが、日本人を言葉の綾でも、嫌いだとでも言ってしまえば、二度と日本に居場所がなくなると思ってずっと絶対に言葉の綾でも日本人の悪口なんて言ってこなかったんですが、先日知人にそういった事を言ったら心が少し楽になった。単純に日本人は全てのレベルが高いから、学ぶつもりでもしんどく思う時があるといった話ですが。海外生活が長い中で海外に居場所なく感じてたからなのかずっと日本に帰ってきたら居場所があるんだろうと思ってきて、帰ってきてからかれこれ10年くらいで、別に居場所なんてなかった。私に問題があるんでしょうね。^ ^ 自分がどういうキャラでいれば良いのかわからないんですよね。見かけがあまりにも帰国っぽくないんですよ。だから余計にわざわざ名乗りたくないんです。というか海外でも転校生ばかりの学校で、授業ごとに教室移動しましたし、自分の性格がわからないんですよね。途中から友達いなくなっちゃって、しかもそのぼっちがバレにくいし目立ちにくいしで、喋るのかもわからないアジア人みたいな感じになって、それがまた楽で、超楽しかったんです。それにめちゃくちゃ慣れてしまっていまして。楽が良いからね。楽にしてる自分を最後まで選んでくれる人もいないですしね。あと帰国同士って別に共感出来ないんですよね。別に当然海外の人と共感なんても出来ないし。個人間であればまだ、自分の事あまり話さないなりに、楽しくやれたりしますが。なんかある程度の数で話すと吹奏楽部の時勝手に身につけた習性なのか、集わないと、と思ってしまう。引っ張ってくれてる子なんて超感謝したり。まぁただ後は放っといてくれ状態でしょ、知るかって思ってる。規則を守る的な事は勝手に自分の趣味としてしたい事でしょ。そう思っている印象を受ける人でないとついて行きたいとも思えない。というか、日常生活なんて今までほとんど天気の話ぐりいまでか、相手の事や、何か要件かくらいしか友達でも言ったことない、というくらい抑えてきた。帰国は密室的に兄弟が仲良くなり易いとよく言うが、姉の機嫌を損ねる事だってあまりしない私は本当に姉にとってのテイの良いゴミ箱だと思って生きてきた。だってその方が話がスムーズにいくからね。わざわざ不快になりたくないのも理由の一つだけど他にもある。姉の事は全く尊敬してない。だってそもそも話をする人間お互い少ないしな。普通にこういった文句本人にめちゃくちゃ言ったが。めちゃくちゃ言ったが。今までの事をめちゃくちゃ感謝して欲しいと思っている。 自分の思う事をそのまま言えたり、団体の中での自分のスタンスがある、という人は私より遥か高次元で生きてらっしゃいますよ。猫派にしても犬派にしても。私深い意図や思い入れなんて結局猫派犬派にないんだと思う。てかそのどちらかの人って両方王道やん。世の中どんだけ動物いるんだよ。王者の対決だね。

猫は超好きです。歌川国芳とかNO.1じゃないですか。輝き過ぎですよ天下取ってますよ。基準は知りませんが、そう感じますが、生きてて。

というか猫好きな人は猫に忠誠を誓ってますが、猫自身のイメージとか言うと、もし人間の女性だったら、餌の時だけ近付いてきてこちらの気持ちをかき乱す、振り回される系の女性じゃないですか?それが最高なんじゃないですか?堪らないんじゃないですか?

今のマンション動物禁止なんでどの動物も本質的な性質なんてわかりませんが。

私食虫植物の絵とか描いてましたが。

咬ませ犬と他人から言われた事が私はありますが、特技ですし、嫌な事もあるけど、嫌でもないですかね。^ ^うちで飼ってた犬も元々迷い犬で勝手に我が家に住んできて、結構ずっと多少の計算高さのあるバカっぽいやつでしたがね。

自分にチャンスがあるならキツネ派になりたい。詳しくないから言わないだろうが。

猫派の方も犬派の方も読まれていて、不快に感じられた方いらしたら申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。どちらの派とも、私は今後一切言いません。

*4:私が年上に求めるものって、なんやかんや遊んで欲しい、やりとりがあってのじゃれて欲しい、じゃなかったら金だけ出してくれ(酷過ぎる)、お前ひとりで(この世界は)やっていけるんだから、というものなので。社会ではそれでは生きていく事が不可能でしょうが社会でなければ、自分の好きな事に時間当てよう、という発想になります。年上に気に入られて嬉しいとナチュラルには思えない人間で...。甘え下手ですので...。無茶苦茶ですが、年上には迷惑をかけるものだと思っています。失敗した時に修正などをしてくれたら良いので、初めから修正策など出されると、なんか無理です。(全て酷過ぎる。)初めから悩みを告白してくれみたいな事言われるとどうにも無理なんですよね。相当むしろこっちが相手に可愛い気を感じないと。(ずっと悪い言い方しかしてませんが)悪い言い方すると、なんやかんや利用してやるもんだと思います。いや昔はこんな事全然考えないすごい大人しい子だったんですが、その変わり表面的な付き合い以上のものを年上に対してした事がないというか。黙ってついていくタイプではあったんですよ、只黙り過ぎちゃって苦しいわみたいな。そんなに自分の事を言いたいとも思いませんし。弱肉強食的な原始的な考え方で接して、年上相手に多少噛みついた方が、とりあえずは相手は何かしら私に向けてのものを返してくれるものだと、最近考えまして。噛みつかないと、この人誰宛てに喋ってるんだろう、と思ってしまうんですよね。噛み付くって極端ですが、自分のコミュニケーション・スキルのレベルが低いんだとは思います。良いバランスで接する事が出来たら一番なんですが。意外と噛みつくと年上って真面目に接してくれる事もあるんですよね。その分仕返しもされて疲れますが。 大人しいけれど真面目なんだろうとか多分誤解して接される事が多いので、年上相手であっても自分から何かどんどん投げないと、誤解されたままになって、関係という関係が成立しにくいんだと思います、私は。大人しいけど真面目ではないんで。そして逆に何があるんだって、何もないから、何かを得る為には年上が必要なんですよ。だから何か投げるしか仕方ないんですよ。でも疲れる。 なんやかんや幾らナメられている大人でもスキルはある。(酷過ぎる)母とか家事が得意ではないけれど、やっぱり積み重ねているなりのコツやらを知っているんですよね。めっちゃくちゃ上から目線だなという話ですが。何かその分自分が小さい事で良いから返せれば良いという理屈です。大きい事じゃなくて、なんでしょうね、なんやかんや知人にクッキーを渡す為に作っていた事で、人間的な所あるんだなと母に見直された感はあります。ところどころで、おい教えろみたいな態度でしたけどね。^^ 今の時代ネットの情報やらyoutubeやらありますけど、本当なんやかんやちょっとした疑問やらって、ダイレクトに人間が早いみたいですよね。 ...なんにせよ、まずは自分で勉強しろという話でしょうが。まぁ母は家事のレベルが低いので(酷過ぎる)、とっつき易さはありますが。ハードルが低いというか。といっても普通に母からチッとした目で見られているので^^、(そりゃ母も人間だ。(むしろこの言い方が母に失礼過ぎるな。))まぁ普通に尊敬もしていますし、まぁ働いてはいないけれど(一番の問題だろ)私なりには生きているよ。私、姉の事だって朝起こしたりしてきたでしょちきしょぉぉぉぉぉぉぉぉ!偉くね!?つーか自分でマジ起きろよ!(何故か文書を書くと、良い事書かなきゃって方向性で書いてしまう、でもまぁそれでポジティブなイメージを脳につけられたら儲けもんと思うのが良いんですかね。^^)
年下はなんだかわかりません。慎重に、むしろ神様でも扱う様に、一時期接してしまう時がありました。というか、大学時代の反動で、前職を離職後にアルバイトを3ヶ月間していた時、自分の精神年齢が幼いのもあるんでしょうが、同期では社会人の方よりも学生の子とキャッキャする方が楽しかった...可愛くって...。私仕事そんな出来てませんでしたけどね。^^ 社会人の方って怖くて^^(ダメ人間過ぎる)、同期だとなんか余計に... 私が自分のダメぶりを比較してしまいますしね。^^ 大学で年下ばかりの中、結局の所軽いイジメ笑にあっていたので、まぁ甘んじて受け入れましたつもりですがね、年下なんて可愛いもんとして多少扱った方が良いという気でおります。(単純に私が年上として、尊敬出来ない人間だったのかもしれませんが。まぁ引け目を持っていたし、やいのやいの言われるの嫌なんで自分から浪人生だとは言いませんでしたけどね、多分薄々気付かれていた程度のもんでしょうが。 しかし私も家族に対して尊敬の念で接しているんではないので。よそで○○ちゃんの憧れのお姉ちゃんなんでしょとか言われると、否定しない姉にドン引きします。普通に自分って損だなと思います。めっちゃ姉の話の聞き手やって来たんですが。)自分に対しても思うんですが、年下程怖いものはないっすよ。悪い部分を見つけるのが結構年下の得意分野かなと思うので。年上は気付きにくいんですよ。(年下の方が悪い部分があるのは当然だから、それよりも良い部分に結局は目が行く事もある。そもそも成長なんてして欲しくないし。というか年下に噛み付かれる時程イラッと来る時はないでしょうしね。) 今は年下に会わないからわからないんですが。そもそも人に会わないんで。
はっきり言って私は末っ子ですが、小学校高学年くらいには全く反抗をしない子になっていまして、(なんなら姉が少しやさぐれて、それをかわいそうだと思っていたくらいですわ。母に対してもかわいそうだと思ってましたし。兄は本人は大人しいつもりでも私からすると何気なくウザいしでも本人は仲良いつもりだし、父は家にいないし。)最近私がやさグレていたら、うちの家族って私という年下がいるのに思いの外反抗され慣れていないんだな、とか思ってしまった。(特に、単純に兄がウザい。“何が不満なんだよ”とか小声で言われたんですが、何も不満ないよだってあんたに興味ないから^^と思って、自転車で走り出しました。(は?)青春っぽく自転車で数時間走ってました。兄って特に統率力もないのに、年上が一方的に何かを与えるものとでも思っていそうなんですが。こちらとしては、与えてくれているものにひたすら付き合ってきたくらいなんですが。こちらの言い方なども悪いんでしょうが(噛み付き口調)、それちょっと違うな、とこちらが一つパス出したら、極端に拒否されたみたいに捉え過ぎでしょ面倒クセー野郎だな、みたいな。^^まぁ年下に噛み付かれるのって嫌ですし許せませんよねなんだかんだ私も大学の時深いコミュニケーションに至るまでの事出来ませんでした、だって向こうが“許してあげよーよー”とか言ってるんすよフザケンナバーカ!しかし年下が多いから結局は向こうが優位みたいな状況!って感じだったんで。 兄に対して、畜生、泳がせてやる、みたいな気持ちもありますし、男の人ってまとまってない話嫌いとか言ってましたっけホンマでっか!?で。私基本的に話纏まってないので、それが無理ならこちらも歩み寄らねーよ、みたい.な..うちの家族って何故か仲良し家族を装いたがるんですが(多分寂しがりが多いだけなんです、皆O型なんで。)、それで家族で集ってご飯を食べるなんて事も定期的にあるんですが、私が只の噛み付き野郎なんで、しばらく家族から離脱しようと思うんですよね。(何の話?)別にその場で合せる事は出来ますが、“○○ちゃん機嫌良くて良かったー。”とか思われたら、お前ぶっ飛ばされたいのかって思ってしまうんで。^^ 母とか姉なら一応女なんで、話のネタもあるにはあるんで、会話出来ますけど、兄なんてそもそも話のネタねーし、合わせんのも面倒くせーし、そうなると私が兄に噛み付いた事に話題が言ってしまうけど、特にゆずる気もねーし、むしろ何もないから、しばらくシカトですね。
私たまにすごいアバンギャルド?というか攻めるぜ!みたいな気持ちになるんですが、それは体力続かないんですよね。
良い折衷点みたいなものを見つけたい。